リハビリテーションとはなにか? を考える(リハビリの基礎講座①)

まほせら式 リハビリの基礎講座

リハビリテーションとはなにか? を考える

普段、リハビリを仕事にしている人でも、「リハビリテーションって何ですか?」と聞かれると、簡潔に答えられないのではないでしょうか。私も聞かれたら、どのように答えるか迷うと思います。今ではこういう質問が出ないくらい、「リハビリ」という言葉は世間に認知され広がってきています。

一般の方のリハビリのイメージは、病院のリハビリ室で専門職が訓練を行い、さらに詳しい方だと在宅のリハビリまで想像するかもしれません。生活すべてがリハビリだと答える方もいるかもしれません。

それでは、私たちセラピストはこれをどう考えるべきなのでしょうか?

リハビリの定義が治療の役に立つのか? と思う方がいるかもしれません。しかし、成熟したセラピストというのはここをしっかり押さえています。「仏作って魂入れず」ということわざがありますが、これが抜けているとまさにそのような状態になるでしょう。

ほとんどのセラピストが学生時代の授業でこのテーマに触れていると思います。しかし、臨床と結びつくには時間と経験を要するかもしれません。本当の意味で理解するというのは身体に染みこむような感覚です。患者様や利用者様に対して自然にそのように考えができるということです。

そのような状態になった時、はじめて本質を理解したことになるでしょう。逆に言えば、それまでは本質を知らずに仕事をしていることになります。それで果たして良いのでしょうか?

セラピストの基礎としてまずここを踏まえたいと思います。

リハビリとはなによりもまず人権の問題である

リハビリテーションの定義については、WHOの定義もありますが、ここでは私の考えと最も近い厚生労働省の「地域リハビリテーション支援活動マニュアル」(1999年 地域リハビリテーション支援活動マニュアル作成に関する研究班 班長:澤村誠志)に書かれた定義を引用します。

リハビリテーションとはサービスであるとともに、技術であり、ひとつの思想でもある。また、リハビリテーションは、医学、教育、職業、社会など、きわめて多角的なアプローチを必要としている。さらにリハビリテーションとはなによりもまず人権の問題であり、本来人権をもたない障害者に国や社会が恩恵・慈悲として人権を付与するものではない。人が生まれながらにしてもっている人権が、本人の障害と社会制度や慣習・偏見などによって失われた状態から、本来のあるべき姿に回復させるのがリハビリテーションである

ここには「なによりもまず人権の問題であり」と書かれています。それでは人権とはなんでしょうか? 定義的には自由権、参政権、社会的生存権など色々ありますが、ここではリハビリの現場で扱えるように、もっと実学として自分の身体の中に落とし込めるようにしたいところです。

私なりに突き詰めると、人間らしく生きるとはどういうことなのか? というさらなる問いにつき当たります。この問いに対する答えが、その人のリハビリにおける信条となるのです。

中枢神経疾患のリハビリにおいて「自分でトイレに行きたい」というニードは多いと思います。ポータブルトイレ、さらにはオムツで用を足すとなると、精神的な葛藤や苦痛を生み出すことは想像に難しくありません。

胃ろうの問題について、一般の方の中には「口から食べられなくなったら人生は終わりだ。胃ろうは延命だ」という人もいます。食べることは動物において基本的な欲求です。身体に障害を持った人が最後の楽しみとすることも珍しくありません。

認知症が進行した状態では、過去の記憶がなくなり、場合によっては元の人格と全く別の様相を呈することもあります。伴侶や子供のことも分からなくなり、家族を嘆かせることもあります。

これらの方々について、セラピストは可能な限り本人や家族の希望を尊重し、元の状態に回復するように努力します。しかし、もしそれらが達成されなかったとしても「人間らしくない」とは判断しないと思います。

では、何を持って人間らしいとするのでしょうか? その容易に結論の出ない問いを考え続けること がリハビリを行うことの前提なのです。

自分の人生を生きてもらうために

何を持って人間らしい生き方とするかは、人それぞれの人生観や価値観に基づくものです。私たちはその患者様(あるいは利用者様)の生き方に寄り添う形で支援するのが本来の姿です。これは言葉で言うのは簡単ですが、経験を積んだセラピストでも時に難しいものです。

人の価値観は多様であり、自分と全く違う考えを持つ人もいます。セラピストとしてごく正当なプロセスを提供したつもりでも、場合によっては自分の価値観を押し付けることになるのです。

例えば、健常な若者でも、目標を立てて1つ1つ階段を上っていくことに喜びを覚える人もいますし、家でテレビを見て寝転んでいることに喜びを見出す人もいます。年齢によっても人生観は変わってきます。リハビリにおいても、どのような気持ちを持っているか人それぞれで違います。

このことに気付いていないと、善意に基づいて支援したつもりでも、他人の人生観や価値観に干渉して、結果的に本人の主体性を奪ってしまうことになります。この主体性こそが人権において大切な要素であり、リハビリにおいても核になるのでないかと思います。

私たちの生活の多くは選択で成り立っています。乳幼児期は環境に依存する部分が大きいですが、成長するに連れて自身で選択しながら、人生を築いていくことができます。

自分の人生を自身で選択しているか、”自分の人生”であることを本人が心の底から感じているか。それが人生における主体性であり、本当の意味でリハビリがリハビリとなり得る本質だと思います。

認知症の方の主体性とは? 医療現場にあふれるリハビリの矛盾

本人の主体性がリハビリの本質だとすれば・・・・・・

・重度の認知症により理解や判断がほとんどできない方はどのように考えれば良いのか。
・意欲が極端に低くリハビリに拒否的だとしたら、必要だとしてもリハビリを行わない方が良いのか。
・本人が歩きたいなら、たとえ転倒のリスクが大きくても歩いてもらうべきなのか。

このように実際の臨床では多くの矛盾が存在します。

重度の認知症の方については、本人に快・不快の感情や何らかの意思表示があるのなら、それをくみ取り、なるべく本人が安楽に過ごせるように進めるべきだと思います。また、本人と同じように家族の意思も尊重すべきです。家族という存在もまた本人が選択した末に培ってきたものです。それは本人の選択の延長線上にあると言えます。

意欲が低い方や行動にリスクがある方など、本人の望みと行うべきリハビリに大きな差があるケースは実際によく見られます。そのような場合にどう判断するかは決まった答えはありません。

例えば、通行人がタバコを吸っていたとして、タバコの害を十分に知っていたとしても注意する人は少ないと思います。しかし、橋の上から飛び降りようする人がいたら、まずほとんどの人が止めるでしょう。

本人の希望を尊重するとしても、医療従事者として見過ごすことができない責任があります。人生観や価値観を尊重するか医療としての責任を果たすのか、そこのバランスをとる必要があります。そのバランスの取り方は各々で決める問題ですが、成熟したセラピストであればその判断は近くなってくるように思います。

まとめ

専門学校や大学で学んでいる時、リハビリテーション概論や医学倫理という講義はもしかしたら退屈なものだったかもしれません。私自身、あまり必要性を感じていませんでした。しかし、多くの経験を積むと、リハビリテーションの本質を理解しているかそうでないかは大きな問題だと感じるようになりました。

記事では理屈を重ねましたが、大切なのは相手の立場になってものを考えて、多種多様な価値観を理解する という、人と接する上でごく基本的なことです。知識や技術ももちろん重要ですが、セラピストには人間としての成熟も求められます。

患者様や利用者様からすれば、知識や技術が高く、それでいて人格にも優れたセラピストは手を合わせたくなる存在だと思います。そのような魅力的なセラピストがたくさん増えてほしいと思います。