カンデル神経科学を科学する

おすすめの書籍・教材
最近、ブログでパーキンソン病についてまとめることになり、それを書くには神経の基礎や筋緊張について自分自身よく勉強する必要がありました。ブログを読んでくださる人にとっても、それらの知識が書いてあると理解しやすいだろうと考えて、「超基礎から学ぶ神経講座」「筋緊張を考える」と題して、前提となる基礎知識についてまとめることにしました。

神経機能や生理学について調べる機会が多くなり、家の資料では分からないことも多くなってきて

管理人
もっともっと、資料が欲しいー!

……という切実な叫びが心から湧き出るようになりました。

医学書にはそれぞれの役割があり、入門書としてわかりやすく概要を示したものもあれば、反対にある程度知識があることを前提に特定の分野について深く掘り下げたものもあります。私が今回欲しかったのは、神経についてあらゆる知識を深く網羅した辞典的な書籍であり、広く深くという矛盾した希望を叶えてくれる存在でした。そこでたどり着いたのが「カンデル神経科学」でした。

アマゾンで「神経学」と検索するといくつかの書籍がヒットしますが、その中でも目を引いたのが「カンデル神経科学」でした。20人以上レビュアーがいて、おすすめの星は平均で4.5(満点が5)でした。レビューには「神経科学のすべてがここに」「知りたいと思う内容がほとんど網羅されている」「神経科学の書籍の集大成」などと賛美する声が並んでいて、さっそく購入してみました。

今回は実際に調べものに使用してみた感想も含めて「カンデル神経科学」を評価、分析してみたいと思います。

カンデル神経科学とはなにか?

エリック・カンデル博士は、2000年に神経情報伝達の研究の功績が認められて、アルビド・カールソン、ポール・グリーンガードとともに、ノーベル生理学・医学賞を受賞しています。このブログをずっと見ている人なら、記憶にあるかもしれませんが、アルビド・カールソンは1958年にドーパミンが神経伝達物質であることを立証した人物で、過去の記事にも少しですが名前が登場しています。

その時の記事がこちら
→ パーキンソン病の歴史と背景(パーキンソン病のメカニズムとリハビリ ②)

このエリック・カンデル博士の名前が冠付けられている本書、「Principles of Neural Science」の原著初版は1981年に出版されていて、今回取り上げるのは2013年に出版された原著第5版の日本語版です。初版から33年目にしてようやく翻訳が達成されたことになります。

「本書は日本のみならず世界中の大学・研究室で、神経科学・脳科学を学ぶものにとっての頼るべきスタンダードになってきた」と日本語版監修者序文に書かれていますが、それは執筆陣を見てもよくわかります。カンデル博士を筆頭に、主にアメリカの各領域の最高権威によって執筆され、例えば「第12章 伝達物質放出」では2013年に細胞内の輸送システムについての研究でノーベル賞を受賞したトーマス・スードフ博士ら、「第32章 においと味:化学感覚」は2004年に嗅覚系の研究により同賞を受賞したリンダ・バック博士らにより執筆されています。

原著第5版が販売されたのが2013年ですが、日本語版は翌年の2014年に出版されています。全9パート67章に付録も付けられた本書は監訳者だけでも9人、訳者は89人を数えます。これだけの容量を1年で翻訳したというのは想像でもたいへんな作業とわかります。日本、アメリカの研究者ともにたいへんな労力のもとにつくられた書籍と言えるでしょう。

視点① 知識の質、量ともに優れている。

実際に調べもので活用してみて、値段はそれなりにしましたが十分にその価値のある書籍と感じました。他の書籍を調べても書かれていなかった内容について、ここで記述が見つかることもあり、大きな助けとなりました。

例えば、最近私は「筋紡錘」について調べたのですが、ひとつの筋紡錘の中に核袋線維が2~3本、核鎖線維が5本ほどが包まれているという記述は見渡す限り「カンデル神経科学」にしかありませんでした。他の生理学書ではひとつの筋紡錘に一本ずつの核袋線維、核鎖線維が模式的に図示されているものもあり、紛らわしい部分もあります。

筋紡錘の記述の部分。筋紡錘に内包される線維数まで言及されている。

多くの人にとっては必要のない細かい内容かもしれませんが、そのような部分を明言してフォローしていることで、私のような他者に情報を発信する者にとっては、たいへんありがたい書籍と言えます。

前述したように全9パート67章から構成されていて、総ページ数は1649ページです。パートだけ紹介すると、

PartⅠ 概論
PartⅡ 神経細胞の細胞・分子生物学
PartⅢ シナプス伝達
PartⅣ 認知の神経基盤
PartⅤ 知覚
PartⅥ 運動
PartⅦ 無意識下および意識下の神経情報処理
PartⅧ 神経発生と行動の発現
PartⅨ 言語、思考、情動、学習

……となっています。これだけ見ると少し味気ないかもしれませんが、章ごとのタイトルを見ると、具体性を帯びてそれぞれ興味を引かれる部分もあるのではないかと思います。「PartⅥ 運動」を例に紹介します。

PartⅥ 運動
第33章 運動の構成と計画
第34章 運動単位と筋活動
第35章 脊髄反射
第36章 歩行運動
第37章 随意運動:一次運動皮質
第38章 随意運動:頭頂葉と運動前野
第39章 視線の制御
第40章 前庭系
第41章 姿勢
第42章 小脳
第43章 大脳基底核
第44章 神経変性疾患の遺伝的なメカニズム

「第36章 歩行運動」では歩行について神経制御的な側面からまとめています。セラピストにとっては興味深い内容ではないでしょうか。最近、パーキンソン病についてのブログを書いている私にとっては「第43章 大脳基底核」「第44章 神経変性疾患の遺伝的なメカニズム」などはとても勉強になりました。

目次を見ただけでも、その充実した内容が伝わってくるようです。目次だけでも24ページあります。

もちろん、各章とも紙面の都合上、概論という枠は超えられないわけですが、それでもかなり詳しい知識が載っていますし、前述のように各分野の権威が執筆しているということで、現状の標準的な知識という意味で、質的にも高い信頼が置けると思います。

また、パートごとの色の違いと言いますか、取り扱っているテーマによって読者の感じ方も少し変わってくるのではないかと思います。

PartⅡ「神経細胞の細胞・分子生物学」やPartⅢ「シナプス伝達」ですと、難しい生化学の講義を聴いているみたいですが、PartⅦ、第48章「情動と感情」、第51章「睡眠と夢」においては高度な科学読み物を読んでいるような感覚を覚えます。

また、執筆者によって記述の色が違うのも面白く感じます。大学で講師によってその伝え方やスタイルに味があったように、読者によってはそのような違いを楽しむこともできるのではないでしょうか。

研究者の個性を残しつつ、この巨大な書籍に見事に内包させたところに、編集者の意気込みや懐の広さを感じることができます。神経学の石碑的な作品であり、そしてこの石碑は神経学の発達に従い、進化し続けているとも言えます。

視点② わかりやすい図と解説

「カンデル神経科学」の長所は知識の質、量だけでなく、それをわかりやすく伝えているという点でも素晴らしいと言えます。もちろん「理解がしやすい」というのは読み手の学習段階にもよりますので、一概に言えるものではないのですが、この書籍で扱っている知識の質を考えると、分かりやすく説明するようにかなり思慮されていると思います。特に図のわかりやすさは素晴らしく、私のブログでもいくつか引用させてもらっています。

色鮮やかな図面が配置された紙面。

トピックや要点については「BOX」でさらに詳しく述べられている。

図、文体ともにわかりやすく伝えるよう工夫されていますが、構成においても、目的の項目に速やかに到達するように上手く作られています。まず、パートや章の名前自体が取り扱っている対象をよく表していますし、目次を見るだけでもだいたいどの辺りを読めば良いのかわかります。そこで分からなかったとしても、詳しい索引があり、そこから目的のページに到達することができます。本書には和文索引だけで39ページほどあります。

それら構成の妙は、具体的な形で目の前に現れるわけではありませんが、読者にとってはストレスを知らないうちに軽減してくれます。そのような目に見えない部分も、高い知性と版を重ねた実績が基盤になっているのでないかと思います。

視点③ 唯一の欠点はなにか?

もちろん、人の好みや使用用途によって選択されないことはあると思いますが、それとは別に客観的に言える「カンデル神経科学」の欠点があります。それは紙の薄さ、それに伴う物理的な本の扱いにくさです。

以前の記事で、同じ会社から出版されている「臨床のための解剖学 第2版」を紹介して相当なボリュームと感じたのですが、そちらにしても総ページ数は1099ページです。「カンデル神経科学」はさらに約1.5倍ほどのページがあります。

参考記事はこちら
→ 解剖学書の巨星 グレイとムーアを読む

しかし、本の厚さにすると意外にそれほど差がないのです。上が「カンデル神経科学」、下が「臨床のための解剖学 第2版」です。



この本来あるべき1.5倍の厚さの差がどこに消えたかと言えば、それは紙の薄さです。厚すぎて製本が難しかったのか、書籍の重量を問題視したのかわかりませんが、その分、紙を薄くすることで解決しようとしたと推測できます。

実際に扱ってみた感想として、普通に本を読んでいても後ろのページが透けて見えます。読むのに支障はありませんが、透けるのははっきりと分かります。複写は後ろのページに黒い紙を入れるなど工夫が必要でしょう。厚くて持ち運びも難しいので、そのような点では電子書籍化が望まれます。

本を閉じようとしたら紙が薄すぎて自然にたわんでしまい、ページとページの間に挟まって折れてしまったこともあります。全体が薄いので、本全体でもたわみやすく、めくりにくさもあります。この物理的な扱いにくさも、この書籍の客観的に見た欠点のひとつと言えるでしょう。

まとめ

書籍「カンデル神経科学」について、実際に調べものに使用してみた感想も含めて、まとめてみました。概要を述べると、神経医学全般の生理学をまとめたもので辞典的な役割も期待できます。これ以上の知識を手に入れようとすると、それなりの細分化した専門書を手に入れなくてはいけないでしょう。

神経関連の専門家やその卵であれば全体を読み通すのも良いかもしれません。かなりの労力と思いますが、日本語版監修者序文でも「学生時代には、まずはこの本を通読してほしい、と私たちは願っている」と書かれています。

その他の分野の医療関係者であれば字引的に使用するか、興味のあるところを調べるのに良いと考えられます。それでも十分にこの本の価値を堪能できると思います。

古典的名著というのは、知識の量や質に優れているだけでなく、どこか品性というか単純な知識以外の味わいを感じさせてくれます。解剖学アトラスで言えば、グラント解剖学図譜などがそれに当たります。「カンデル神経科学」は歴史から言えば、その段階にはまだ当たらないかもしれませんが、はやくもそのような品格を感じさせてくれる書籍だと思います。