パーキンソン病の歴史と背景(パーキンソン病のメカニズムとリハビリ ②)

パーキンソン病

本記事をお読みいただく前に:治療法、薬剤、解剖生理学などは日々研究が進んでいます。記事に書いた内容も、参考にした文献のその時点での見解や仮説に過ぎません。記事はなるべく客観性を保つように書いていますが、その検証については各々においてお願いいたします。主な参考文献は記事の最後に記載しています。

パーキンソン病の発見

「パーキンソン病」という名前はイギリスの医師、ジェームス・パーキンソン(James Parkinson:1755-1824)に由来します。父のジョン・パーキンソンはロンドンで開業する外科医であり、ジェームスも家業を継ぐ形で医師になります。
ジェームス・パーキンソンは多才な人物だったらしく、診察室だけの医学にとどまる人物ではなかったようです。貧困、言論の自由、高齢者・障害者問題に関心を寄せて、仮名を使って政治論文を12編執筆するなど、反政府運動に3年ほど関わっています。

政治活動から身を引いた後も市井の人々の生活に積極的に関わり、1799年~1809年の10年間(44歳~55歳頃)は地域住民に医学や科学の知識を普及させる活動に取り組んでいます。病気の簡単な解説や医師へのかかり方、医療資源の有効な活用の仕方などを説明した『医学のおしえ』『村人の友人としての医者』、子供がケガをしないように書いた『危険なあそび』、医学教育について論じた『病院での修行』、化学に関する知識をまとめた『化学ハンドブック』などを著しています。開業して診療に従事するだけでなく、住民の生活環境や啓蒙に関与したパーキンソンの活動は現代の地域医療につながるもののように感じます。

また、彼は地質学や古生物学に造詣が深く、それぞれの分野でも著書を表しています。恐竜の名称で「○○サウルス」と付くものが多いですが、この”サウルス”をはじめて命名したのもパーキンソンと言われています。彼は1822年に歯列がオオトカゲに似た下顎骨の化石を発見して”メガロサウルス”(巨大なトカゲという意味)と名付けました。このわずか2ヵ月ほど前に、同じイギリス人医師で地質学者であったギデオン・マンテルがイグアナの歯に似た化石を発見して”イグアナドン”(イグアナの歯の意味)と名付けています。このイグアナドンが学術的に報告された最初の恐竜とされています1)。もう少しメガロサウルスの発見が早ければ、パーキンソンは病名だけでなく恐竜研究の歴史にも名前を残したかもしれません。

このような物事を熱心に研究する姿勢が、未知の病気を白日の下に浮かび上がらせたのでしょう。

ロンドンで外科医として開業していたパーキンソンは、手の震えが徐々にひどくなって仕事ができなくなった庭師がいると伝え聞きました。強く関心を持った彼は、他にも似た症状の者がいないか調べ、同じような症状を持つ6人を見つけました。その症状を長期間にわたり詳細に記録して、1817年に「AN ESSAY ON THE SHAKING PALSY(振戦麻痺に関するエッセイ)」という小冊子にまとめて発表します。その中には現在、パーキンソン病の四大兆候と呼ばれる「振戦」「固縮」「動作緩慢」「姿勢反射障害」のうち、固縮以外の症状は記載されていて、さらに前傾姿勢、小刻み歩行、腰折れ、小字症、流延など現在、臨床で観察できる運動障害のほとんどが書かれていたと言います。

パーキンソンは1824年に69歳で亡くなりますが、その功績は死後しばらく経ってから認められたため、彼の姿を写した肖像画も写真も残されていません。インターネットで検索すると、黒いひげを蓄えた人物の写真が出てきますが、これは別人物であるという意見が多いです。

彼の死後、長い期間が経ってから功績に気付いた人物がいます。フランスの神経学者、ジャン・マルタン・シャルコー(Jean Martin Charcot:1825-1893)です。シャルコー・マリー・トゥース病の発見者の一人として今日まで名前が残っているだけでなく、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の最初の報告者としても知られています。ヨーロッパではALSを彼に由来してシャルコー病と呼んでいます5)

パリのサルペトリエール病院の教授であったシャルコーは1866年から1878年まで火曜日に行われる自らの診察を一般公開していて、それは「火曜講義」と呼ばれ神経学の中心となっていました。1888年6月12日の講義で、振戦のない本症を紹介して、さらに筋力も異常がないことを確認して、これからは振戦麻痺ではなく「パーキンソン病」と呼ぶように提唱しました。すでにパーキンソンが亡くなってから60年以上が経過していて、その原著は希少でフランスに1冊も存在しませんでした。シャルコーはマンチェスターの図書館から取り寄せて、その内容を読んで絶賛していました。

かくして「振戦麻痺」と呼ばれていた病気は「パーキンソン病」となり、パーキンソンが記載しなかった「固縮」を1892年にシャルコーが記載して四大兆候がここで揃いました。

原因の究明と治療法の変遷

症状について研究が進んだものの、その原因や機序については不明な点が多く、治療法も手探りな状態が続きました。

そのような中、シャルコーの弟子であるLeopold Ordenstainがベラドンナアルカロイドが本症に有効なことを当時に記載していて、それが治療の始まりでないかと考えられています。

ベラドンナアルカロイドとは、ナス科の植物であるベラドンナから抽出されたアルカロイドで、アトロピンという成分を含んでいます。このアトロピンに抗アセチルコリン作用があり、それがパーキンソン病に効果を発揮します。後の記事で触れますが、パーキンソン病はドーパミンが不足することが障害の原因となります。ドーパミンが減少することで拮抗するアセチルコリンが相対的に増えるので、その働きを抑えるという原理です。アセチルコリンの働きを抑える薬剤を抗コリン剤と呼びます。

その後、薬物療法は抗コリン剤を中心に進みます。1905年イギリスでスコポラミンによる治療が開始されます。日本でも1928年からスコポラミンが導入されます。スコポラミンとはアトロピンと同様にナス科の植物から抽出されるアルカロイドで抗アセチルコリン作用があります。しかし、これら自然由来の抗コリン剤は臨床効果が一定せず中毒性もあり、効果は十分とは言えないものでした。

1949年に合成抗コリン薬であるトリヘキシフェニジル(商品名:アーテン)の薬理作用がアトロピンに類似していて、中毒性も少ないことがわかり、後のL‐ドーパの出現までパーキンソン病の最も有効な薬として処方されていました。現在でもL‐ドーパ、ドパミンアゴニストに次いで有効な薬物とされています3)

一方、病理の研究では1912年にドイツ人医師、フレデリック・ヘンリー・レビー(Frederic Henry Lewey:1885-1950)によりレビー小体が発見されます。パーキンソン病の脳において無名質、迷走神経背側運動核に特異な細胞内封入体を発見したというもので、その時レビー本人は他の細胞封入体と誤認していたのですが、後に他の研究者により新しい発見であることが指摘されました。1919年、ロシア人のコンスタンティン・トレチャコフ(Constantin Tretiakoff:1892-1958)がパーキンソン病脳の中脳黒質の残存ニューロンに、レビーが発見した細胞内封入体、すなわちレビー小体があると報告しました。以降、この細胞内封入体は「レビー小体」と呼ばれています6)。トレチャコフはパーキンソン病の病巣が中脳黒質であることを発表し2)、以後、本症の特徴である運動障害において、中脳黒質の変性が責任病巣であると認識されるようになりました。

その後はしばらく大きな発見がなかったのですが、1958年、アルビド・カールソンがドーパミンが神経伝達物質であることを立証します。彼はエリック・カンデル、ポール・グリーンガードとともに神経の情報伝達における研究の功績が認められて、2000年にノーベル生理学・医学賞を受賞します。

1960年、パーキンソン病患者の線条体でドーパミンが減少していることが発見されました。この発見はエーリンガー(Ehringer)とホルニケビッチ(Hornykiewicz)の発見とされていますが、同年に大阪大学の佐野勇も報告をしていて、同じ時期に離れた場所で同じような大発見があったということになります。この発見により、現在の定説である中脳黒質の変性により線条体のドーパミンが不足するというパーキンソン病の機序が導かれました。

ドーパミンの知見が加わったことでパーキンソン病の薬物療法が一変します。ドーパミンの補充薬である「L-ドーパ(レボドパ)」が1970年代に普及し、さらにその10年ほど後に「ドパミンアゴニスト」が登場します。ドパミンアゴニストとは、ドーパミン受容体に結合してドーパミンと同じ作用を起こす薬です。1970年代以降のパーキンソン病の薬物療法はこのL-ドーパ系とドパミンアゴニスト系の薬が中心となります。

L-ドーパが登場した時の衝撃は強く「奇跡の薬」とまで呼ばれました。医師のオリバー・サックス原作で、ロバート・デニーロ、ロビン・ウイリアムス主演で映画化された「レナードの朝」はその象徴とも言える出来事です。

「レナードの朝」の原作はオリバー・サックスの体験に基づく医療ノンフィクションです。この映画で取り上げられたのは嗜眠性脳炎という病気で1916年から10年ほどの間に世界的に大流行しました。原因ははっきりしていないのですがウイルス性ではないかと考えられています。報告者の医師の名前からエコノモ脳炎とも呼ばれています。
亡くなる人も多かったのですが、一命をとりとめても後遺症でパーキンソン病と似た症状に苦しみ、進行すると眠ったように反応が乏しくなります。

オリバー・サックスはその症状がパーキンソン病と類似していると考えて、1969年、当時まだ生存していた嗜眠性脳炎の患者たちにL-ドーパを投与します。その結果、劇的な改善を見せますが、効果は徐々に減少し副作用が強くなり改善はごく短期間にとどまりました。

映画が象徴するように、L-ドーパは強い効力を示す一方で、長期服用や使用法によっては様々な問題を引き起こすことがわかってきました。その後登場したドパミンアゴニストにしても注意すべき副作用があり、万能の薬でないことがわかりました。

その後もL-ドーパ系、ドパミンアゴニスト系ともに様々な新薬が開発されています。また、1990年代に入りMAO-B阻害薬、COMT阻害薬も登場しました。前者は脳内(神経細胞から遊離された段階)のドーパミン分解酵素、後者は血液中のドーパミン分解酵素を阻害する薬であり、分解を妨げることでドーパミンを増やすことを目的にしています。L-ドーパと組み合わせて使用することが多いですが、症状が軽い時期はMAO-B阻害薬のみで治療が行われることもあります3)。

2000年には、脳に電極を埋め込む脳深部刺激療法(DBS)が医療保険の適応になっています。胸部鎖骨下に埋め込んだ刺激発生装置から、視床下核(あるいは視床腹中間核、淡蒼球内節)に埋め込まれた電極に刺激が伝わる仕組みです。視床下核刺激法については、パーキンソン病の主要運動症状と薬物療法による合併運動症に対して効果があり、薬物療法で改善が不十分な運動合併症、および抗パーキンソン薬の減量に対して有効とされています4)

2009年には脳の外側から刺激コイルを装着して、磁器刺激を与える「磁気刺激治療」の研究が行われています。動作緩慢に効果が得られ、刺激の後もしばらく効果が持続したと報告されています3)。非侵襲的であり今後の発展が期待されます。

解剖生理の研究においては1983年にデロングが大脳皮質-大脳基底核のループ概念を提唱、1990年にはアレクサンダー、クラチャーが基底核ー視床ー大脳皮質の神経回路網を発表し直接路と関節路の概念を示しました。これらはパーキンソン病のメカニズムを考える上で大きな道標になっています。

そして現在、医学はiPS細胞、遺伝子治療、細胞移植治療など、未来の治療とされた数々の技術が実際に行われる段階まで進んできています。まだ臨床では多くの人がパーキンソン病で苦しんでいます。医学のさらなる進展が待たれるところです。

主な参考・引用文献
1)中野隆(編著)「機能解剖で斬る神経系疾患」メディカルプレス.2011
2)山永裕明、野尻晋一「図説 パーキンソン病の理解とリハビリテーション」三輪書店.2010
3)水野美邦「パーキンソン病の診かた、治療の進めかた」中外医学社.2012
4)「パーキンソン病診療ガイドライン2018」一般社団法人日本神経学会ホームページより閲覧可能
5)一般社団法人日本ALS協会ホームページ「初めてのALSの報告と病気の名称」より
6)大塚成人「第58回昭和医学会総会教育講演① レビー小体と関連疾患」昭和医会誌.第72巻1号.p70-81.2012
7)作田学「図解 よくわかるパーキンソン病の最新治療とリハビリのすべて」日東書院.2016