解剖学書の巨星 グレイとムーアを読む

おすすめの書籍・教材

前回は「プロメテウス」「ネッター」「グラント」という解剖学アトラスの代表的な書籍について書きました(👉「解剖学アトラス プロメテウスとネッターとグラントを比べてみた」)。今回は解剖学書について取り上げます。前者が図や写真がメインの視覚主体の構成なのに対して、後者は文章による説明が主体で、図や写真はそのための補足という形になります。

とは言っても、身体をイメージするのに図や写真はとても大きな要素なので、アトラスほどではないですが、多くの図や写真が載っています。

医療系の学校に入ると、まず最初に解剖学書を購入すると思います。私も理学療法士の養成校に入学した時に藤田恒太郎先生の「人体解剖学」、渡辺正仁先生の「理学療法士・作業療法士のための解剖学」、時実利彦先生の「目でみる脳 その構造と機能」の3冊を解剖学の授業用に買いました。それだけ解剖学書というのは、セラピストや治療家にとって身近な存在だと思います。

私の学生時代と比べて、現在は解剖学書の状況が大きく異なるように感じます。ここ20年ほどの解剖学関連の書籍の発展は目覚ましく、今までなかった良質な書籍が多く日本に取り入れられました。

解剖学関連書籍と日本出版時期
プロメテウス解剖学アトラス(原著初版)2007年
ネッター解剖学アトラス(原著第2版)2001年
グレイ解剖学※(原著初版)2008年
臨床のための解剖学(原著第5版)2008年

※ ここに記している「グレイ解剖学」とは2004年に学生向けに派生した「Gray’s Anatomy for Students」の訳であり、1858年から版を重ねている「グレイ解剖学」については2008年以前にも日本語版が見られます。

グラント解剖学図譜は1970年代から日本語版を確認できますが、それ以外の、現在主流の解剖学書籍の多くが2000年より後に日本に渡ってきています。

解剖学の教材を取り巻く環境も日進月歩で進んでいます。より上質あるいは自分の段階に合った教材を選択することは、技術を向上させる上で無駄なことではないと思います。

今回、取り上げる解剖学書は「グレイ解剖学 第3版」と「臨床のための解剖学 第2版」です。この2冊は世界的にもスタンダードな解剖学書です。

この2冊の美点と特徴を見ていくことで、解剖学書の魅力もまた伝わると良いと思います。

グレイ解剖学

日本で最も有名な解剖学書と言えば、グレイ解剖学だと思います。世界で一番有名と言っても良いかもしれません。

テレビドラマ「グレイズアナトミー 恋の解剖学」のタイトルの由来になったことも知名度が高まった要因だと思います。また、「グレイ解剖学の誕生」という書籍も出版されています。解剖学書を作る過程が書籍になるなど、他では類を見ないもので、このあたりも他の解剖学書とは一線を画す所以です。

グレイ解剖学の初版は、1858年に医学生向けの教科書としてロンドンで出版されました。イギリスの外科医であり解剖学者のHenry Grayの著述と、Henry V. Carterの精密な図面によりベストセラーになりました。以後、現在に至るまで40回を超える版を重ねています。2004年に学生向けに「Gray’s Anatomy for Students」が派生して、現在、エルゼビア・ジャパンから出版されている「グレイ解剖学」のシリーズはこれを訳したものです。2019年1月時点で、第3版まで刊行されています。

私の「グレイ解剖学」の印象は一言で言えば、スタンダードであり、洗練という言葉がふさわしいように思います。CGで描かれた図面はカラフルでやや模式的であり、読者が位置関係をイメージしやすいように、熟慮された跡が見えます。

グレイ解剖学(第3版)の紙面。横隔膜がこの角度から描写されているのは珍しい。

図面については、プロメテウスより実用性を追求して、ネッターより簡潔にしたという印象を受けます。紙面の配置もスッキリしていて読みやすく、後述の「臨床のための解剖学 第2版」と比べると、そのレイアウトもスタイリッシュなことが伝わると思います。

大腿前面の解説。CGによる解剖図が色調鮮やかに映る。

腹腔内の腸の走行についての解説。レイアウトはすっきりまとめられていて読みやすい。

第3版では電子書籍用のシリアルコードも付属されています。重い解剖学書は持ち運びに不便であり、電子書籍化は大きな福音と言えるでしょう。価格も電子書籍が付属していなかった第2版に比べて2000円の値上げにとどまっており、かなりお得なように思います。

欠点らしい欠点は見当たらず、全ての項目において、高いレベルでバランスがとれています。それでありながら、あえて個性を主張せず、スマートであり続けようとしているように思えます。必要な情報をあくまで解剖学の範疇でまとめていて、多くの臨床事項を盛り込もうとした後述の「臨床のための解剖学」とは、その点が対照的に思います。

解剖学書のスタンダードであるために洗練を重ねてきた、そのような書籍だと思います。

臨床のための解剖学

原著は1980年にK.L.Mooreが単独の著書として出版した「Clinically Oriented Anatomy」が始まりです(現在はA.F.Dalley 、A.M.R.Agurとの共著)。2010年の原著第6版はアラビア語、韓国語、ギリシア語、スペイン語、トルコ語、フランス語、ポルトガル語、ルーマニア語に訳されており、2014年の第7版も2015年11月時点でイタリア語、スペイン語、中国語、フランス語、ポーランド語、ポルトガル語版が出版されています。

この「Clinically Oriented Anatomy」を日本語訳したものが「臨床のための解剖学」であり、今回は2019年1月時点で最新刊である「臨床のための解剖学 第2版」(原著第7版)を紹介します。

佐藤達夫、坂井健雄両氏による監訳者序文では「現在世界中で最もよく使われている解剖学の教科書である」と書かれています。2016年2月18日現在、アメリカのAmazonでも最も売れている解剖学書と言うことです。
🔶出典はこちら(外部サイトです)

グレイ解剖学に比べて厚さはほんの少し厚いくらいなのですが、フォントが小さく、行間も狭いので、ぎっしり詰められた感が伝わってくる構成です。

上が「グレイ解剖学 第3版」、下が「臨床のための解剖学 第2版」です。後者の方が少し厚く、ページ数では100ページほどの差があります。

当初はグラント解剖学図譜から多く図面を用いていたようですが、版を重ねるごとに図面の差し替えが進められ、この版ではあまりグラントらしいクラシカルな雰囲気は伝わってきません。しかし、グレイ解剖学のカラフルでスタイリッシュな図面と比べるとやはり落ち着いた感があります。

リンパ系の図は新しく差し替えられたものも含めて、グラントの描写を思わせるものが多くあります。内臓系の描写や解説は非常に細かく、その点もグラント解剖学図譜と共通しているように思います。

解説に対応する図面が多く配置されており、理解を助けてくれる。文章と合わせて紙面はしっかり詰められた感があり。

解剖学書では珍しく、運動学的な視点も多く含まれています。形状的なことだけでなく、発達学的なことや加齢に関する内容にも触れられています。例えばp441には脊椎の骨化について書かれており、p458には脊柱の弯曲について発達も含めた変化が記述してあります。

解剖学書には珍しく運動学についても触れられている。

P441 脊柱の骨化について書かれた部分。図面で詳しく説明されている。

各章ごとにブルーボックスと呼ばれる青色のページがあり、そこに関連する臨床事項がまとめられています。
セラピストに関連が深そうな内容を紹介すれば、p462からは「脊柱」についての臨床的知見がまとめられていて、椎間円板の加齢からヘルニアの形成、骨折、靭帯断裂などに言及されています。

臨床事項について解説したブルーボックスのページ。ここでは脊柱の臨床についてまとめられている。

これらに書かれている知見はいずれも医師の目線を感じさせます。内臓のことであれば内科や消化器外科、運動器のことであれば整形外科といった具合です。

臨床に触れようとしても、解剖学書では紙面に限界があります。それは他の解剖学書では各診療科目ごとの専門書に任せています。なぜ、他の書籍では触れられないところまで、あえて踏み込んでいるかと言えば、解剖と臨床を結びつけたいという強い思いがあるからでしょう。たとえ十分でなかったとしても、専門書と結びつける役割はできます。

「臨床のための解剖学」という名前が付けられていますが、それは単なる暗記ではなく、身体の原理や原則に基づいて身に付けるものであり、そのような教育をしたいという強い意志が感じられます。

セラピストや治療家としては、それらの知識はすぐに治療に直結するものではなく、背景にあって生きるような存在だと思います。もしかしたら、キャリアの浅いうちはあまり魅力を感じないかもしれません。

しかし、経験を積んで、臨床でわからないことがあり、人体というものを深く考える時に、役に立つのではないかという知識が詰め込まれています。私自身、読み返してみてずいぶんと新しい発見がありましたし、読めば読むほど、興味深い内容が見つかります。

グレイ解剖学のようなスマートさはありませんが、医学に対する情熱と愛情、奥深さを感じさせる、そういう解剖学書だと思います。

また、この書籍には簡略版の「ムーア臨床解剖学」があり、2018年12月時点で日本語訳第3版が出版されています。原著「Essential Clinical Anatomy」は「Clinically Oriented Anatomy」の学生向けの位置付けであり、サイズがだいぶコンパクトにまとまっています。持ち運びにはこちらの方が便利でしょう。

まとめ

記事を書くにあたり、いくつか解剖学書を見直してみましたが、今回取り上げた2冊を見ると、世界的に普及している理由がよくわかります。読者の視点に立ち、理解を助けるように吟味されているのが見ると伝わってきます。

群馬大学医学部の話ですが、解剖学の教科書を指定していないにもかかわらず、ほとんどの学生がグレイ解剖学を使用していたとのことです。
🔶出典はこちら(外部リンクです)。

日本の解剖学書にも良質なものがありますが、図面で言えばその質に大きな差があります。場合によっては組織の形状をイメージするために解剖学アトラスを別に購入する必要が出てきます。少なくても最初に買う教材としては「グレイ解剖学」や「臨床のための解剖学」を選択する学生が多いのは自然だと思います。

本来は母国語で表現された書籍の方が理解がしやすいはずなので、その上でこのような結果になっているのは、日本の出版事情からすると残念なことかもしれません。

「グレイ解剖学」にしても「臨床のための解剖学」にしても、強い志によって作られています。グレイ解剖学においてはそこに150年を越える長い歴史が加わっています。それを超えるのは容易なことではないでしょう。

そのような新しい歴史を作る書籍をいつか見てみたい気もします。しかしその日が来るまでは、この偉大な解剖学書2冊を作り上げた先達の偉業を称えるとともに、それを読むことができる幸運を味わっていたいと思います。